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  明治維新後、熊本も時代の風雲に巻き込まれていきます。
明治9(1876)年10月政府が発令した廃刀令に反対する神道思想の神風連が挙兵、旧熊本藩の 士族や神官ら170余名が、熊本城に置かれた熊本鎮台に切り込み、鎮台司令長官などを殺害。
 
   


しかし、洋式の鉄砲をあえて拒否し、日本刀と槍で戦いを挑んだ 神風連は鎮台の鉄火器の前に一夜にして鎮圧されます。
ところがこの神風連の乱が引き金となって福岡秋月の乱、山口萩の乱、そして西南戦争へと戦火は飛び火していくことになります。

明治10(1877)年、参議を辞した西郷隆盛が鹿児島で挙兵、上京を開始。
隆盛は熊本鎮台あてに上京趣意書を送りますが、鎮台はこれを拒否、
武力による制圧を宣言します。また、政府も薩軍の征討令を出し、この時点で熊本南部までいた同軍は逆賊となりました。

   
   

薩軍は熊本鎮台を総攻撃。この時、突如
隈本城は炎上します。炎上の原因は未だ謎に包まれたままで、放火説、失火説、鎮台側の自焼説などがありますが、結論は出ていません。

熊本城の火は旧城下へ波及しました。市街地の約9割を焼き尽くしたというこの火災は、
城の火が飛び火したこともありますが、鎮台兵が防衛のために放火したことも大きな要因のようです。

 
   

一万数千といわれた薩軍を、鎮台側はわずか三千人で迎え撃つことになります。結果的に熊本城に籠城。
薩軍は三日間にわたり攻撃を加えましたが、熊本城の守りは固く、落とすことは出来ませんでした。
その後城の包囲は政府軍が到着する52日後まで およびますが結局落城させることが出来ず薩軍は撤退を余儀なくされます。
田原坂の壮絶な戦い、そしてその約半年後、政府軍の鹿児島城山総攻撃によって長かった西南戦争は終結しました。

熊本城が難攻不落の名城であることは、240余年の平和が続いた後、城が城としての役目を終えた時代になって始めて実証されることになったのです。

 

   
 
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