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    加藤清正の生まれは尾張国。 豊臣秀吉とは同郷というだけでなく、血縁関係にありました。
9歳で秀吉の小姓となった清正は、その後功績をあげ、天正11(1583)年の賎ヶ丘の戦では、「七本槍」の一人に数えられて3千石を与えられています。
そして、天正16(1588)年、肥後の統治に失敗した佐々成政の後を受け、小西行長と共に入国。肥後の北半分を領する大名になりました。
 
         
   


この時入城した隈本城は現在の隈本城ではありません。清正が新しい隈本城築城に着手したのは、
肥後入国後の天正末から文禄年間、慶長の初めといわれ、諸説があります。
その間、秀吉に命じられ文禄慶長の役の主力として多忙を極めます。本営となる肥前(佐賀県)に名護屋城の築城や、有名な虎退治の逸話を残しました。

文書上の築城着手は、関ヶ原の戦い後となる
慶長6(1601)年。落成が慶長12(1607)年ですから、
七年の歳月が費やされたことになります。
熊本城落成に際して、清正は「隈本」を「熊本」に
改称しています。

 

   
   

 

慶長16年秀吉の恩に報いるため、二条城における
徳川家康と豊臣秀頼の会見実現に尽力、
当日は 秀頼の警護にあたりました。
しかし大阪から熊本帰国する途中に病に倒れ、同年6月24日未明、熊本城内で 最後をとげました。
家康が秀頼を討つ大阪夏の陣は、清正の死からわずか4年後でした。

清正の死後は当時11歳の忠弘が跡目を相続。
しかし、当時の将軍、徳川家光と相対していた
徳川忠長と親しくしていたという理由で改易され、
加藤家は取り潰しとなったのでした。

 
 
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