一覧へ戻る
   
 
   

加藤家が取り潰された後、肥後領主として
白羽の矢が立ったのは、当時豊前小倉城主だった
細川忠利でした。忠利は近世細川家の3代目。
初代幽斎が足利将軍家に仕えてたのを皮切りに、
以後2代目の忠興、そして忠利は、織田信長、
豊臣秀吉、徳川家康に仕え戦国の時代をくぐりぬけ
てきました。領国も丹後、豊前と国替えを重ねて、
肥後の藩主となりました。
華道、茶道、儀礼にも卓越した見識を持っていたとされており、文武に秀でた室町以来の名家として知られていました。ちなみに、忠利の母親は明智光秀の娘、のちのガラシャ夫人です。

 
         
   

さて、加藤家改没後であり、元々治めにくいとされていた肥後への入国に際し、忠利が徹底して行ったのは、加藤家に礼を尽くすことでした。
熊本城に入場した際、西大手門の前で
「只今より肥後五十四万石の城地を拝領いたす」と
跪いたといった話が残っているだけでなく、加藤家の遺臣数十人を召し抱えたりもしています。

また、忠利は武芸に通じていたことでも知られており、剣術も柳生宗矩に入門、二階堂流の奥義も極めていました。
晩年の宮本武蔵を召し抱えたのも自身の武道への深い思いがあってのことでしょう。

細川家の文武両道の家風は、その後も継承され、肥後文化の根源をなしていきます。武蔵によって藩士に
二天一流が伝えられた他、忠興が千利休の直弟子だったこともあり、質実剛健の肥後古流の茶道文化が伝えられたり、肥後六花や肥後象嵌なども細川家の時代に文化として育ちました。また、現在も市民や観光客に親しまれている水前寺成趣園の普請も忠利が着手、綱利によって完成されています。

寛永9(1632)年、細川忠利が熊本城に入城して以来、
11代、240年にわたり細川家による熊本統治は続いたのでした。

     
 
copyright©くましろ.com All rights reserved
inserted by FC2 system